中二病でも恋がしたい 中二病の動機に切り込む

※2節目以降ネタバレ

・小説から換骨奪胎して別物へ

中二病を卒業して、高校からは一般層としてやっていこうと決意していた主人公。しかし一目惚れしたヒロインは邪気眼中二病で……という、元中二病の人間には悶絶もののラノベ原作アニメ。

さすが京アニ!というくらい、とにかく面白かった。大量の新キャラや設定の変更を経て原作からは予想もできない進化を遂げている。

原作ありきではあるのだろうし、テーマとして中二病の扱いが異なるので、一概にどちらがいいというのは難しい。ただあえて面白さを比較するなら、やはりアニメの方が格段に面白いとは思う。

なぜアニメの方が面白いのかはともかく、アニメ版で中二病がどういうものとして扱われたかを見ていくことで、その差について考えたい。


中二病について原因から考えるアニメと小説の違い

本作のヒロイン・六花の中二病は、現実(父親の死、及び周囲からの圧力)への適応を拒否したい六花の願望を叶える方法として登場する。つまり、中二病になる動機を深く掘り下げる。

中二病については諸説ある、というか明確に一つのものを指す言葉ではないと思う。Wikipediaでも「中二病(ちゅうにびょう)とは、中学二年生頃の思春期の少年少女にありがちな自意識過剰やコンプレックスから発する一部の言動傾向を揶揄した俗語である」とある通り、非常に広い意味で使うことが可能だ。

そのため、中二病それ自体に形を与えることは難しいが、共通の特徴はあるような気がする。それは、社会で一般的な価値観に則って話をしても通じないことと、そのずれた自分の価値観を肯定的に考えている点だ。良くても「普通はそうだよね」といったリアクションが返ってくる。

全く厳密な話ではないが、その辺りから私は、ナルチシズムが社会に適応しようとする過程で見られる一連の反動及び衝動ではないかと考えている。

この意味で、私はこのアニメにおける中二病の扱いはかなり妥当だと思った。六花のような周囲との軋轢が顕著な場合において、主人公がやっているのを見て憧れるだけで本人のうちにそのような価値観が芽生えるか、という点の真実味は分からないが。

ともかくアニメの方では、六花の中二病を動機の面から肯定するか否かというのに対し、小説では中二病という結果を肯定するか否かという議論をしている。この点でアニメと小説はテーマが異なる。

議論のステージが違うので、両方見て、視点の違いを感じるのも面白いと思う。


・アニメ版はなぜここまで面白くなったか

あまりに違うので比較が難しいが、一つには視点の多さがあるだろう。

アニメ版には様々な立ち位置の人が登場する。

中二病だが、ほろ苦い程度の主人公、同じ元中二病でも、激しく過去を嫌がる丹生谷、現役中二病の六花は原作と同じ立ち位置だ。ただそこに、理解はしても全否定する姉と、そもそも理解しない家族、その有無に無関心な先輩、フォロワーである凸守などが加わることで、中二病への多様性が広がっているように見える。

多様性が広がると落差が生まれやすいので、様々なところでギャップが生まれ、おかしみが出るのではないかと思う。


後は、部活を作ったことが大きいと思う。同じ部活に所属することによって、友情などの別の軸を立てることに成功しているように思う。

つまり、中二病と恋、もしくはその中二病の解体という要素だけではなく、「こんな集団に所属できたらいいのにな」という見方が生まれている。

個人的に、アニメは最近(でもないが)この仲良しというか日常というか、そういう要素が特に重要になってきていると思う。少なくとも京アニは明確にそのことを意識した作品を多く手掛けているように見えるので、それをここでも意識的に使って行ったのだと思う。

このアニメの人気やセールスがどうか、そのおかげなのかなどは分からないが、少なくとも面白くなっているとは思う。

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この作品は嬉しい誤算で、相当面白く見れました。中二病だった(現役含む)人は相当悶えると思いますが…私はかなりキました。それでもオススメです。