物語に対する「面白い」とは①

・当たり前のように使ってはいるが…

物語が面白い、とは一体なんなんでしょうか。

普段から余りにも自明なものとして馴染んでいるせいで意識することは少ないですが、実は相当曖昧な言葉だと思います。

確かに形容詞とは暖かい、新しい、眠いなど、全体的に主観的又は相対的な評価であるものばかりです。

しかし「面白い」がそれらと明確に異なるのは、その表すものすらはっきりとは意識されていないことです。

他人の暖かいは自分の寒いで、自分の新しいは他人の古いかもしれません。しかし暖かいであればそれは明確に気温・気候のことを指し、新しいはできてからの年月を指すことは基本的には揺るぎません。

では面白いとは、どういった状態を指すのでしょうか。なにがどうあれば面白いと言ってよいのでしょうか。

調べればどこかの専門家のような人が考えているかもしれませんが、まずは自分で考えてみたいと思います。


・人が「面白い」と感じるのはどんなときか

今回考える際には、辞書的な意味はいったん考慮せず、普段使う「面白い」について考えることにします。

よく言われる説としては、面白いとは感情が動くことである、というものです。要するに感動ですね。

確かに「泣ける」とか「感動のストーリー」なんかはよく謳い文句になりますし、一理あると思います。

しかしここで私情を挟むなら、感動、すなわち喜怒哀楽たる感情が動くことだけでは、物語に触れたときのあの高揚感を十全に表せていないように感じますし、加えてミステリーやSFなどの面白さを表現することは難しいように感じます。

何が異なるのか。それを考えるためにまず人間が何を求めるのかについて考えていきたいと思います。


・人は本能の壊れた動物である

ここで岸田秀先生の理論から一つの「仮定」(私は真理だと考えていますが……一応)を導入します。要するに唯幻論からつまみ食いします。

人間は本能の壊れた動物だ、ということです。

ここで本能というのは、遺伝的に受け継がれる行動様式のことです。(注: 後日追)基本的には本能は快楽原則の形で現れると言います。本能が現実に適応していれば、快楽原則=本能に従うだけで現実で生きることに必要な行動を取ることができます。

しかし人間においてはそうではありません。生まれてきたときにあまりに未熟であるため、現実を認識することができないからだそうですが、とにかく生まれてきた瞬間、主観的には認識ができない=客観的には無知無能でありながら主観的には全能の状態で生まれてきてしまいます。そのため本能はその全能だった頃を取り戻そうとするように規定されます。

ここでは原理とかは割とどうでもよくて、要するにこの仮定より「人間は絶対に果たされない、全能の状態を本能的に追い求め続ける」ということが導かれるのが重要なのです。

人間にとっての本能的な行動=快楽原則に従った行動とは、すなわち全能に近づくための行動になり、(注: 後日追記)その条件を満たすように人間の欲望の全ては形作られます。当然「面白い」という感覚も、ここからの派生となります。


・壊れた本能の取る形態

この全能を取り戻そうとする欲求は二つの形で表出します。

一つは自己拡大欲求です。これは読んで字のごとく、自分を拡大=権力、肉体、思考力、知識、人間関係、その他なんでも、とにかく自分が「良い」と思う方向に発展することで満たされていきます。満足することは永遠にありませんが。

二つ目は、自己放棄欲求です。なぜ自己を放棄することが全能の自我を取り戻すことに役立つのか、すぐにはつながらないかと思いますが、これは自分を大きくしてもどうあがいても全能にはなれないと考えたとき、人間が代理的に満足するために編み出した方法です。自分を放棄して、全能(に感じる)ものに自己を同化することで代理的な満足を得ます。

こちらはそもそも自分は無能のままですから、当然のように完全な満足を得ることなどできませんが、ある意味同じくらい強力な欲求だといえるでしょう。なぜなら、元来全能だったため、人間は労力を費やして自己を拡大することは本質的に屈辱だからです。放棄する方が容易ですから。

人が何を求めるかについては分かったので、これが物語にどう適応されうるかを考えていきたいのですが、時間が尽きたので次回に続きます……