小説を楽しむのか、読書体験を楽しむのか

・二つの読み方

あなたは小説を読むとき、内容の面白さを重要視しますか。

それとも手にした本なら、面白さに関係なく、一つの読書体験として楽しみながら読みますか。


小説を読むとき、私たちは常に楽しみ方を選択することが出来ます。

どんな読み方を選択するかは自由ですが、しかし自分の読み方がデフォルトになっているために、勧め方や感想の言い方などで齟齬が発生しがちです。というか今日発生しました。

自分の読み方に自覚的になり、他人の読み方について理解ある対応ができたら、それがベターではないでしょうか。



・内容の面白さを重要視=自己中心タイプ
僕は典型的なこのタイプです。

このタイプは自分の欲望に忠実で、とにかく面白さを求めます。自分の物語への欲求を満足させるまで止まらないモンスターのような存在です。

面白さに貪欲で、表現するかはともかく、評価軸がはっきりしていることが多いです。そのため好みとは別の次元で、面白さという共通言語でものを伝え合うことが出来ます。

一方でつまらないと感じた小説は、すぐに読むのをやめてしまいます。

なぜなら、「つまらないものが再び面白くなるかどうか確かめるために読み続ける」より、「つまらないと切り捨てて次の可能性へ移る」方がより面白さを感じながら読書していられる可能性が高いからです。

また、読書でなくても、時間と言うコストに対し見合わないと思ったらすぐにやめます。「面白さ」という基準で割り切ると、他にやりたいことがたくさんあって目移りしてしまうのだと思います。

だから必然的に、このタイプは評価も辛いです。読者の立場から批評して、望むものを提供してくれなければ容赦なく攻撃します。



・体験を重要視=作品中心タイプ

このタイプはどんな作品でも面白さを見つけるか、また面白くなくても「それはそれで」と楽しむおおらかな人が当てはまります。

彼らにとって作品の出来や面白さは最重要事項ではなく、それを含めた体験というトータルなものが判断材料になります。

作品を途中でやめることはほとんどないものの、あまり甲乙つけたがることもありません。どちらかというと「すべての本は自分以外かもしれないが誰かの傑作」というようなスタイルで作品に向き合います。


・作者や作品にとって、前者はクレーマー、後者は善良な顧客

書き方からもはっきりしているかと思いますが、僕は作品に向き合うなら後者の読み方をすべきだと考えています。妙なバイアスなく読めるし、ストレスも少ないと考えるからです。内容に対して素直に読むことも出来そうです。

ただ僕に関して言えば、がっつかずにはいられない。やろうとしても出来ないのです。

つまらないと思えば壁に投げつけたくなるし、金を払っていれば文句の一つも言いたくなる。損したと後で思うようなことはしたくない。

だから僕は後者の読み方が出来なくても、特に悪いと思っているわけではありません。それでも、それによってかけてしまう作品への圧力は常に自覚しておくべきだと考えています。

それにどちらのタイプが欠けても、健全な市場とはいえないのではないでしょうか。


・重要なのはお互いの特性を理解すること

だから別にどっちだろうと、お互いが理解し合えればそれでいいんです。たぶん。

例えば自己中心型は、作品中心型に対し、面白いことを理由に作品を勧めるのを警戒しないといけないとか。作品中心型の人は読みとは別のところで、出来れば何か基準を持っておいた方が便利かなとか。

話すときに相手がどちらに寄っているか考えるだけでも、それなりに対処出来るんじゃないかと思います。