歩きタバコを論破できるか

・不快なもの

歩いていると、急にくるあの臭い。前を歩いている人の手中に灯るあの光。

考えただけで悪態をつきたくなります。それくらい私にとっては不快で、嫌なものです。

しかし同時にこう考えます。果たして私は彼に論理的に歩きタバコをやめさせることができるだろうか?と。

歩きタバコをやめるべき理由?

ためしに歩きタバコをやめるべき、それらしい理由を列挙してみましょう。

①受動的に健康を害するのに、防ぐ手段に乏しい
②周囲のマジョリティは臭いなどで不快に感じる(はず)
③小さい子供に危険である
④吸殻が路上に捨てられる
⑤条例で禁じられている(一部地域のみ)

⑤だけは例外です。この条件の下でなら歩きタバコを明確な悪として追放することができます。

しかし残りはどうでしょうか。順を追って見ていきましょう。


・これでは勝てない

まずは①ですが、一見自明のようですが、そんなことはありません。

健康を害することは必ずしも悪いことではないからです。価値観の問題ですからね。これが悪であれば、タバコの販売を許す国家自体が悪、その国家に一市民として住む自分が悪ということになります。

ゆえに例え不快感を味わったとしても、それは不快だと捉える価値観を持つ自分の責任ということになります。

次に②ですが、別に不快に感じられるからといって、禁止されてもいないことをやめさせるわけにはいきません。下手糞な金管楽器を閑散とした民家から離れた公園で練習していて、耳障りだとしても、彼を咎められないのと同じようなものです。

③や④は簡単で、その状況を作り出さなければいいだけです。


・迷惑だって?やめろと言うお前が俺にとって迷惑だ

こういった個別の案件では論理的に説得し得ないことが分かりました。では総括して他人に迷惑がかかるからやめろ、と言いうるでしょうか?

それも無理です。なぜなら迷惑というのは主観的な内容だし、何より迷惑をかけていない人など存在しないからです。

大なり小なり、人はそこにいるだけで何らかの迷惑を他人に及ぼします。何をどうあがいても誰かしらにとっては迷惑な存在になってしまいます。

電車に乗れば有限の空間を一部占領ことになるし、車なんていわずもがなです。自転車だって車や歩行者から見れば邪魔ですし、歩行者も逆から見れば邪魔です。引きこもったところで同居する人間には直接的に迷惑が及びますし、そういう人がいなくても周囲に住む人間には不気味です。迷惑です。

人にひたすら親切にして「迷惑をかけないように」しても、そんな態度を見て偽善だと不快に思う人もいるでしょう。

そんな人間が、果たして他人に、迷惑だからやめろと言いうるでしょうか。そんなに自分は他人に迷惑をかけていない自信があるのでしょうか。そこに動機の有無は関係ありません。

結果として、歩きタバコを論理的に悪だと断定してやめさせることはできません。


・ならば戦争しよう

ゆえに、歩きタバコを糾弾しようと思ったら、我欲のために、自分のためにやめろと言うしかないのです。君が悪いわけじゃない、けど俺は不快に思うから歩きタバコはやめてもらおう、と。

もちろんそんな戦争をいちいちアカの他人と起こすわけにはいきませんから、自分で避けるしかありませんけど。

私は進んで他人に迷惑をかけろと言うつもりはありません。極力道徳観念は大事にしたいと思って生活しています。

ただ他人の迷惑ばかりを気にして自分の信念を曲げるべきではないとも、同時に考えています。決して正当化はできず、あくまで自己を中心に据えているんだ、という自覚が必要ではありますが。

そう考えたとき迷惑と言う論法は、むしろ自分の価値観にとどまって自己を正当化し、思考を停止する悪手ではないかと思います。

もちろん、マジョリティに従わせる手段としてきわめて有用なのは疑う余地はありませんが……。

結論・歩きタバコは論理的に諭すことはできない。本当に嫌なら、迷惑と言わずに戦争しよう。

不快だと思ったら、これからもちゃんとこうやって自分に原因を求めたいと思います。