物語に対する「面白い」とは②

物語に対する「面白い」とは①

続きです。

前回は話が拡散した形で終わってしまったので、ここで一度要点をまとめておきたいと思います。

○前回の要点

・本論を通して「面白い」の定義づけを行う

・よく「面白い」とは「感情が動く」ことだと言われるが、「感動」だけでは意味をカバーしきれない

・人間は果たされない全能の自己を本能的に追い求める性質を持つ

・それは自己拡大欲求と自己放棄欲求という、二つの欲求の形をとって表出する

こんな感じでした。


・自己拡大欲求とはどう表れるか

ここまでで表出する方法は分かったので、今回は一体どうなれば拡大と言えるのか。この点から始めたいと思います。ここで話を拡大に限定しましたが、放棄欲求は拡大欲求が分かれば自然と導かれるためです。

さて人間は本能的に全能を求めるとはいいますが、しかし全能の自己というのはあまりに不明確です。不明確ではありますが、これを目指さずにはいられないというジレンマにも陥っています。

そのため、このジレンマを解消するため自我はある対象に「聖化」を行います。

一般的な言葉で言うと価値観を持ちます。

この価値観の中でより価値がある状態になる、ということが自分を拡大することにつながるという算段です。この価値観のうちでより上位を求めることを総称して「欲望」と呼ぶことにしましょう。

例えばお金持ちになることがえらい、お金があれば全てが手に入る、お金が全てだ!というような価値観を持っていれば、全能の自己はお金持ちの状態で果たされると思い込みます。お金持ちになる欲望を持つ、と言えます。

しかしこれは所詮思い込みですから、いくら稼いでも全能の自己に到達することはなく、まだ足りないと思い込むか、所詮金では何も得られないのだ、という絶望に陥るかしかありません。

が、とにかくここでは自分の中で全能の自己を表現するため、価値観という定義づけを行い、その価値観の中で拡大を志向する=欲望を持つという点が重要になります。


・再び物語における「面白い」の定義へ

そう考えると、人間が「面白い」と感じるものは少なくともこう言う事ができそうです。

すなわち面白いと感じるのは、自己の拡大を通じて欲望の充足を得るときである、と。

しかしこれでは物語においてどう適応するべきか分からず、実用的ではありません。具体的にどうすればその「欲望」を充足したことになるのよ?ってことですね。

そこで、次に物語と欲望の関係についてみていきたいと思います。

まず大上段から切ってしまえば、物語を楽しむことは基本的には自己放棄欲求だと言えるでしょう。人が物語に一喜一憂するとき、現実の自己を放棄して物語に委ねるからです。放棄した中で、つまり物語の中で欲望の充足を味わうことで満足を得る、という考え方です。(後述しますが、これと並び立つ「テーマ」という重要な要素を今は省いて考えています)

これは人気の高い小説に、心躍る展開であったり、主人公の活躍であったり、成長であったりが極めて頻繁に描かれることから帰納的に導けると思います。(最もこれは後述する別の理由にもよりますが…)


・感情の動きは欲望の充足に包含される

この物語の中で味わう欲望の充足は、前述の感情が動くことが面白いことだとした主張を含めることができます。本当はもう少し細分化するべきでしょうが、とりあえず喜怒哀楽で分けて、少し掘り下げてみます。

感情がどういった場合にどういう風に動くのか、という点について詳しく分析することは私にはかないませんが、これは自己(価値観)への刺激に対する応答であるということができると考えております。

そう考えると、喜や楽の感情は価値観にとってプラスの影響ですから、これが喚起されるとき面白いと思うのは不思議なことではありません。とてもストレートな面白さです。英雄譚や冒険譚はこういうタイプが多いのではないでしょうか。

しかし一方で、哀や怒という感情を呼び起こす、又は味わう物語、例えば悲劇であったりとか、というジャンルは確固たる人気を持って存在します。なぜでしょうか。


・悲劇の原理

これについても欲望の充足と言う観点から説明が可能です。

価値観というのは一見自分の中で整理されているようですが、実際は嘘です。当たり前です。全能の状態なんてありえないんですから。

ゆえにその欲望を満たしても、いくら価値のある(と思っている)ことをしても一向に満たされません。そのため、騙されている自己はいつまでたっても満足できないことに不安を感じるため、時々反乱を求めます。

それが、つまりその価値観が満たされなかったときに起きるであろう「悲劇」です。

基本的には哀しいとは、価値観が求めるものが果たされないときに感じる感情であると思います。これは自分におきる分には本当にダメージをもたらします。

しかし一方で、例えばフランダースの犬でネロが死んでしまうとき、人は哀しいと思う一方で、自分の価値観において底辺に属するものが満たされず不幸として描かれることに対して安心し、かりそめの安定を自己にもたらすことができます。そして硬直化して不安を感じていた通常の価値観を再び一時的にせよ輝かせることができます。

ゆえにマイナスの感情をもたらすような物語であっても、それを通じて自己を安定させることで「面白かった」という感覚を得ることができます。

                                            • -

以上の議論から、感情が動くことは面白さの条件に含まれることが言えたと思います。

ただしここであくまで主張したいのは、この面白さの一面である自己放棄による欲望の充実一つを取ってさえ、感情が動くことと言うのは既に表しきれていないことです。

加えて、物語にはある意味これよりはるかに重大な要素を含んでいると考えます。それは、「テーマによる価値観そのものの書き換えもしくは深化」です。

長くなりすぎましたので、これを考えていくのは次回にしたいと思います。