言葉が死んでしまう前に
・成長について語る前に
前々回、前回と成長について話してきました。しかしよく考えてみると、成長とは何か、という点を曖昧にしたまま議論を進めてきたように思います。これでは論点がはっきりしないばかりか、下手をすると議論が無駄になってしまう可能性があります。
そこで今回は、「成長」とはいかなるものを指すのかを明確にしたいと思います。
あくまでこのブログでの定義で、どこででも納得が得られるような絶対的な厳密さを付与したいわけではありません。
・成長の辞書的な意味
まず成長を広辞苑で引いてみます。すると、
①育って大きくなること。育って成熟すること。
②俗には発育と同じ意味で用い、生物学では生態の量の増加を指し、形態形成あるいは形態変化に対して言う。
だそうです。
②は単純にかさが増えているだけですので、物語においては割とどうでもいい要素だと思います。よって今回は①に注目します。
育って大きくなることは概ね②と同じですが、育って成熟することは今回指したい意味に最も近そうです。
では成熟するとはなんなのか。
一つには「価値観の深化」という要素が含まれると思います。今までこのブログではほとんど成長は価値観の深化を誘発するためのみのファクターとして扱ってきました。しかし成熟と言うと、どうもそれだけでは表せない要素を感じます。
・どう判断するかと同時に、どうやって見るかが必要
そこで考えたのですが、どうも「認識の深化」という要素が抜け落ちているのではないかと思います。
乱暴に言ってしまえば、物事を判断するのが価値観と言えそうです。しかしそれに加えて、物事を見る際には、まずそれを捉える認識が必要ではないでしょうか。
認識が深まれば、一つの情報から得られるものは多く、かつ正確になっていきます。ひどい例えですがテニスで言えば、ストロークをネットに引っ掛けたミスに対し、「力んだなー」で終わらせるのか、「これは相手のボールのスピン量が予想以上に多かったために食い込まれたな。無理やり面を抑えようとしていた」と分析できるか、そんな違いです。
そのため物事をどう認識できるかは、成熟具合=成長の重要なファクターと言えると考えます。
そしてこれは、どうやら自己を拡大する欲求を満たしそうです。物事をより深く見ることができるようになるのは、より全能に近づいたと言えるので。
・成長の方が枠が大きい
ゆえに根本の議論にもどるなら、自己の拡大とは「成長」を指し、その要素として「価値観の深化」と「認識の深化」がある、とすべきなのかもしれません。
毎回くどいようですが、この成長について注意すべきことは、社会的な価値観とはあまり関係がないことです。あくまで自己の問題ですので、何が成長と思えるかは本人次第です。
まあその中でも人間の本質から出発する限り、ある程度人間の成長というのは指向性があるように感じます。ゆえに世の中で傑作と呼ばれうるような意見の一致が見られるわけで。
この指向性についても、機会があればもう少しよく考えてみたいところです。