人間の成長の指向性

ビルドゥングスロマンに傑作はない→そんな馬鹿な

以前、成長の定義について考えたとき、成長とは大きく分けて

・認識の深化

・価値観の深化

に分けられるという話になりました。そしてその対象は自己を拡大する方向性と本人が認識できる限りなんでも大丈夫でした。

しかし何でも大丈夫であり、成長の方向性があらゆる方面に拡散しているとすると、ビルドゥングスロマンの要素を含んだ作品には「傑作」=「専門家とある程度の大衆から高い支持を得ることができる作品」が極めて出にくいと考えられます。

当たり前ですが、実際のところそんなことはありません。なぜでしょうか。


・その方向とは?

多分答えは単純で、人間の成長性に指向性があって、あらゆる方向性に拡散しているわけではないからです。

根拠は二つあって、一つは成長する際にある程度同じプロセスを経ること、もう一つは共同幻想である社会を構成していることです。

同じプロセスと言うのは、要するに現実を認識できない無能な状態で生まれてきて、認識できないがゆえに自己と区別がつかず全能の状態から始まり、やがて認識が可能になるにつれてどんどん全能から遠ざかるさい、その屈辱に耐えるために抑圧を繰り返す存在であることです。

この仮定で何かに価値観が固着することはある程度考えられますが、例えば最初に無能な自己に気づいた幼児が母親を全能のものとして捉え、自己を放棄して同化することで全能感を得ることや、その後母親すら全能ではないと気づき、ほかのものに全能さを求めていく辺りの普遍さが、ある程度共通の欲望を形作っても不思議ではありません。母親がいなかったとしても、代理の存在に対して同様のプロセスが働くはずなので。

共同幻想である社会を構成していることは割とそのままで、人間は私的幻想の一部を共有化することで、「現実」及びそこから「社会」を作り出しているわけですから、その社会においての価値観は共通しており、この方向性を捉えればよいことが分かります。

前者の例えとして、近現代では「人はなぜ生きるのか」というテーマをずっと繰り返し扱っていると思いますが、これは現代の価値観が多様化して、絶対の価値観が崩壊した中、せめて納得するものを求めたいという試みと思われます。

後は逆説的ですが、人間は基本的に快楽原則に流される(元がなにもしないで全能だったため、苦労して自己を拡大すること自体が本来的に苦痛である)ため、自己を拡大するとは、傍から見れば自己を抑制しているかのように振舞えるようになることが成長するという意味合いであるケースが多いとは思います。

これは後者の社会で良いとされている存在にも直結しており、例えば他人を思いやれるとか、雇用を生み出して貢献するだとか、そういうものと容易に結びつきます。あとは「力」全般ですね。知力、暴力、財力、権力、魅力etc...この辺は対象になることの多いテーマではないでしょうか。

例えがイマイチですが、こんな感じでしょうか。なんとなく掘り下げたりない気もするので、思いついたらまた書きます。