天鏡のアルデラミン それは最良の選択肢……?
- 作者: 宇野朴人,竜徹,さんば挿
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2012/06/08
- メディア: 文庫
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※ネタバレあり
・骨太ファンタジー
セカイ系でない、異能バトルでない、真面目に戦記してるファンタジーがほしい人はぜひこちら。宇野朴人の最新作です。
『神と奴隷の誕生構文』『スメラギガタリ』が完結しない中、電撃で最新作が出てしまうことの意味を考えずにはいられませんが、とにかく最新作です。
個人的には大好きなんです。しかし売れない……らしい。毎度歯噛みしていたのですが、今回はいけそうな気配があります。
毎度のように異様にごついテーマはともかくとして、戦術パートは相変わらず冴えているし、キャラ同士の会話が軽快で楽しめます。特にキャラがラノベ的に立ってるのは大きい。テンポのよさも相まって痛快な娯楽に仕上がっています。
・クレバーな主人公
この人の作品の魅力はやはり登場人物のクレバーさです。大局を見通す力を持って、知略で難局を切り抜ける様はなんとも痛快です。結局無双するんですが、腕力で無双するタイプとはまた違った快感があります。
加えて今作では会話にウィットが効いていて、テンポが軽快です。例えば、主人公イクタとヒロイン・ヤトリの序盤での会話、
「その勲章を、きみは高等学校時代から何事につけ独占してばかりじゃないか。そろそろ誰かに譲ってあげても良い頃だよ。主席に座りたがっているのは君ひとりじゃないんだから」
「どの口で言っているのよ。あんたが座らなかったから、私が座っているだけの話じゃないの」
それを聞いたイクタはきょとんとして、暑さで気でも違ったのか、食べ終わった料理の皿からアサリの貝殻をつまんで次々と自分の頭に載せ始めた。ヤトリの眉根がいぶかしげに寄る。
「……ちょっと、それ、何やってるの?」
「貝かぶりすぎ」
あえて何のコメントも返さず、ヤトリは少年の頭からアサリを叩き落した。
皮肉屋な主人公が、何かにつけキレのいいジョークを返すので、見ていて楽しいです。
・世界と個人のバランスが秀逸
もう一つこの作者の特徴として大きいのは、個人と世界のバランス感覚が秀逸なことです。
ラノベの異世界ファンタジーというジャンルには、この観点で見ると様々なタイプがありますが、どうしてもパターンと言うのは偏りがちです。
代表的なのは、『氷結境界のエデン』『輪環の魔導師』『鋼殻のレギオス』のように、世界の命運をかけて「個人が個人の腕力で」戦うタイプだと思います。まあ世界系といってもいいです。ほとんど個人がダイレクトに世界に影響が及ぼせます。余談ですがテイルズとか、ドラクエ、FFなんかの代表的なRPGゲームもだいたいこのタイプです。
根強い人気を誇るのは、話が圧倒的に分かりやすくなる(個人対個人の次元に落とし込める)こと、個人に焦点を当てることでドラマに感情移入しやすくなることが挙げられると思います。弱点としては、現実との乖離が大きくなることです。個人の動向が世界の命運を決めるなんてありえないですもんね。
次に多いのは『花守の竜の叙事詩』『ミミズクと夜の王』のように個人に完全に焦点が当たるタイプ。いっそ世界と何のかかわりもないところでひたすら個人のドラマについて語られるパターンです。
こちらはドラマとして等身大の話なので世界との齟齬を気にしないでいい一方、話を個人レベルに落とし込んでいるために大きな広がりは持たせにくいという欠点があります。
最後に、最も数が少ないタイプかつバランスの取れたタイプとして、個人が個人として世界に存在しながら、その個人を通じて世界を感じることができる、あるいは組織を通じて世界とつながることができるパターンです。『獣の奏者』『空の鐘の響く惑星で』『流血女神伝』(けっこういっぱいあるじゃん…w)などが挙げられます。
まあ、ぶっちゃけ傑作タイプですよね。まともにこれができてるとそれだけでもう傑作に近いです。いえ別に、まえの二つのタイプにだって傑作はありますけど。
なぜこんなめんどくさい前置きをしたかというと、この人の話は一番最後のバランスの取れたタイプに近い(まだセカイ系寄りですが…)のです。『葉桜が来た夏』辺りにも感じましたが、組織が描けているとかなり真に迫るものを感じます。もう少し個人での世界のままならなさが強固になれば、この方向性で傑作たり得るように感じました。
・それは本当に今から目指すべきなのか?
一冊使ってまるまるプロローグだったわけですが、この話で賛否あるとするとその方向性じゃないでしょうか?
敗戦によって国を変える。理屈としては分かりますが、それはどうなんだ?と。
戦争すれば罪のない人間が山と死んでいくのに、腐った国の根幹を変えるのにその手を積極的に選択するのは果たして王族として正しい選択と言えるんでしょうか。うまく負けると言ったって、戦争するだけでもう被害は甚大なわけで。
まだ政争に明け暮れて、暗殺・追い落としその他なんでもござれで独裁して無理やり改革していくとかなら分かるのですが、何となく全体感しかない提案に見えて仕方ない。
しかもどうもエピローグの感じでいくと、この試みが成功するんですよね。つまりこの方向性はぶれないらしい。
この話をやりたいんだったら、政治からのアプローチでは絶対に何も変えられないという描写が嫌んなるくらいないと、何とも難しいような気がします。読者は現実に還元するなら「戦争させられる側」で「むげに殺される側」ですから、「改革では立て直すことが不可能なほどに制度が弱っている」と一言で済まされても辛い。
中将の死は恐らくこの国の腐敗を象徴するような出来事として挙げられているのでしょうが、それは政治の腐敗であって国の腐敗ではありません。
一つ言っておきたいのは、私自身はこの案に必ずしも反対ではありません。ミサイルをぶち込んで既得権益をぶっ壊そうとした『東のエデン』のように、試みとしては現代日本においても通ずるものがあると思います。
ただ本当に「もうそれしかない」のか。非凡とはいえ12歳の少女の決断で動いていいのか。どうにも納得するにはまだ描写が足りないように思います。
まあその辺はこれから描かれるかもしれないので、今後に期待します。