天地明察 滾る男の夢とロマン

天地明察(上) (角川文庫)

天地明察(上) (角川文庫)

・血が騒ぐ傑作

江戸時代というと、300年もの間平和のうちに停滞していたという印象が強い。しかしそんな世の中であっても、全力で走り続けた男達がいたのだ、ということを本書は教えてくれる。

一揆でも、治世でも、飢饉の話でもない、江戸時代の算術や天文という珍しい切り口から語っている異色の小説だ。

氏の作品で実写で映画化とは?と思ったが、読んで納得した。史実に忠実、かは詳しくないので分からないが、少なくともその空気を紙面に再現することを試みたこの作品は、映像化するなら実写がしっくりくる。

この珍しい切り口から語られる知識を楽しむもよし、男のロマンに浸るもよし、広い読み口を持った傑作であると思う。


・己を望む方向に拡大する喜び

本書で最も面白い要素のひとつはこれだろう。つまり、己の価値観に沿って成長し、また成長することに全力で取り組む喜びだ。

昨今では努力とか成長というと、どこか懐疑的又は泥臭い、もしくは「違う人種のやること」のような印象を与えかねない。しかし、この努力とか成長とかいったものは人間にとって、本来構造的に最も大きな快感情を得られるものの一つである。

それなのに何故今それほどはやらないかというと、何をしたら、又は何を伸ばしたら「成長」なのかが個々人にとって自明ではないためだ。一つみんなが強力に規定された目標があり、それを全ての人が共有していれば、成長の意義はまだしも感じやすいだろう。これは価値観の多様化の別な言い方といえる。

また、この成長が同時に苦痛を孕むことにもよる。人は全能だった頃(赤ん坊の頃)の感覚を本能的に取り戻そうとするため、努力して成長することは、この全能であるということを否定する行為であり、苦痛をもたらす。


では本書においては、これらの課題をどう解決しているか。

まず価値観についてだが、これは謎を解き明かすという個人的なシンプルな動機と、大義として、ほぼ抵抗なく人のためと言い切れる題材にすることで、前述の葛藤を避けている。

現代においては、解くことに読者が容易に意義を見出せるものというと、ミステリなどフィクションで作る以外、なかなか見つからないのではないだろうか。

加えて、人々のためになる!と確信することも、現代では容易ではない。

努力のためにもたらされる苦痛は、主人公が余りにその対象が好きであるためにそもそもあまり感じない、というようなスタンスを取っている。「好きなことならいくらでも取り組める」というのは私はとても都合のいい幻想だと思う。ないとも言い切れないので、そう描写されると思わず信じたくなるあたりが秀逸ではないだろうか。

この成長の過程が鮮やかに描き出されている時点で素晴らしいが、その結果としてどんな人物になったか、という点も非常に凄みがあっていいと思う。また結果を勝負という形で盛り上げて表現しているあたりにも巧みさを感じる。


・歴史的な背景を見る知的スリラー

本書は小説であるから、歴史ものといってもフィクションである。しかしリアリティを追求した結果、当時の様々な文化や背景について知見を得ることができる。

さすがに人物の人格や発言をそっくりそのまま受け取るわけには行かないし、そうすると政策の動機なども異なってくるかもしれないが、それでもその雰囲気というか、空気に触れるだけでも面白いと思う。

またこの算術、天文という独自の切り口によって、ほかの小説とは違った時代の見方を提供してくれる。

正直言って、歴史小説は全く知識がないので、この切り口が独自というのも偏見でしかない。しかし捕り物、戦乱、大奥などはまま見るとしても、この切り口はあまり聞いたことがない。

このように文化を中心に据えることで、時代物に対しての多面的な見方の一助となるのではないかと思う。

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この「渋川春海の生き方」という一つの寄る辺になる幻想を物語として生み出したことは本当にすごいことだと思います。

非常に男くさい話ですが、熱い話で滾りたい人はぜひ……といっても、読んでない人が今さらどのくらいいるか分かりませんが。