西尾維新の読後感について考えてみる

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

・異常な内省の増加と虚無感(虚脱感)

西尾維新を読んだことのある人には分かっていただけるのではないかと思いますが、なんなんでしょう。あの名状しがたい感覚。

別にマイナスに傾くわけではないのですが、フラットになると言うか、主観から離れてしまうような錯覚を覚えます。あくまで錯覚ですが。

あまりに気になったので、この間友達と飲んだときになぜそんな気分になるのか考えてみました。というか、二人で同じような感覚を味わっていると知って、どうもこれは小説の特徴なのではないかと思って考えてみた次第です。

その結果私たちは、どうもまとめると次の3点がポイントなのではないかと考えました。

1. 徹底的な相対化

最も影響が大きいと考えたのはこの点です。

彼の作品にはほとんど固定化した観念がなく、徹底的に相対化が図られているように思います。善悪の観念が常に入れ替わり、ある事象に対する既存の考え方を疑うところから常に始めている。

この間挙げた神原と貝木の会話などは顕著ですが、戯言シリーズで「戯言だね」で全てを括ってしまっていたように、もっと根底の部分で一般的な価値体系を否定しているところに理由があるように思います。

そのため読んだときに、生活している現実が意味を失ったような感覚に陥るのだと思います。


2. 自分で言葉を定義する

だいたいの作品において、恐らく意図的に、普通の言葉に対して『』を使うことが他作品と比べて非常に多いです。これは断言してしまって大丈夫だと思います。含みを持たせるような、文脈において、または作品内において、独自の意味を言葉に持たせるときに使われているように感じます。

その感覚に引っ張られるように、私たちは通常の言葉に対し意味を疑ってかかる、あるいは自分で意味を付加して考えるようになってしまうのだと推測しました。



3. 厳密な言葉遣い

また特徴として、あえて複数の表し方をすることも特徴の一つです。あの言葉遊びは彼のオリジナルスキルと言っていいと思います。

基本的には、一つの現象に対し複数の表し方をすることで、より事象に対する厳密性を高める効果があると考えています。より曖昧になるように感じることもありますし、煙に巻かれたような印象を持つこともありますが。

これによって、私たちは物事を見て言葉を与える際に、より厳密な表現を模索するようになります。そのため内省が増えるのではないかと考えました。


・例を引いて考えるべき

どうでしょうか。そこまで的外れなことにはなってないと思うのですが。ほとんど印象で考えたため、仮説どまりです。

機会があれば検証してみたいですね。まあ主観的な感覚について考えているので、検証自体が難しいですが…