鬼物語

鬼物語 (講談社BOX)

鬼物語 (講談社BOX)

※ネタバレる

・キャラクターの積み上げ

シリーズ11冊目でしょうか。一冊が普通の文庫の1.5倍くらいの分量ですから、相当な長編です。

その分だけキャラクターも相当描写が積みあがって、厚みというか文脈ができています。

まあ何が言いたいかというと、これだけキャラができてくるとそのキャラが出てきて喋ってくれるだけで割ともう楽しめてしまうことです。嬉しいやら困るやら。


・積み上げたものが失われる、その喪失感と恐怖の低減

まあ別に素直に悲しかったのですが、それだけで終わってしまうのもなんなので。もう少し考えてみたいと思います。

今回の話に関して言えばなんだかんだ全編通して真宵が死ぬまでの話ですので、最大のポイントはその喪失をいかに描いているかだと思います。

この喪失などの悲劇における、感情のダイナミズムが生み出す効果については以前述べた通りです。その対象に対し思い入れがあればあるほど(幻想に奥行きがあるほど)そのダイナミズムは大きくなります。

同時に、その喪失を主人公にとってより大きく、喪失する主格にとって小さい(大きさは減りませんが、納得するようなシチュエーションにすることによって)生来人間が感じ続けている耐え難い死への恐怖を一時和らげることができます。これは読み手にとって清涼剤としての効果をもたらします。

今回の真宵のケースで言えば、どちらかというと笑って死んだタイプで、喪失感は描きつつもその悲しみには囚われない形です。まあ世界の法則上仕方ないという流れだったので、そんなにしんみりしても後味悪いだけですしね。


付録・怪異が自身の選択によってその存在を捻じ曲げることが許されないのはなぜか?

世界の法則「怪異は嘘をついて存在することが許されない」というのはいったいなぜなのか?勝手に考えました。

まあ世界なんて厳しいもんですから、理由がなくたって別にいいんですが、怪異って、この小説においてはだいたい「人間がこうだと認識するがゆえに発生する何か」じゃないの?と私は認識していたので、世界の法則と言われると違和感があって。

つまり怪異を規定し、定義づけるのは人間なのに、その怪異が世界に拒絶されるとはなんなんだ?と。

はっきりと断言できる要素はないので推測ですが、定義しているのが人間である以上、その怪異が従うべきルールも人間であると見るべきではないでしょうか。


人は基本的に社会(=共同幻想)を乱す存在を許せません。ただでさえ自分の理想からは遠く離れた(=私的幻想を吸い取りきれない)存在でありながら、それにすがらなければ生きていけないのに、それを揺るがす存在を許容できるはずがありません。異分子を社会から放り出すのは彼の思想に問題があると言うより、社会の側が維持できない危機にさらされるからです。

ゆえに怪異に襲いかかる作中で登場したアレは、ある意味では人間の本質であると言えるのではないかと考えました。そりゃあ人間の本質を捻じ曲げたら人間でなくなるんだからまあ無理ですね、と。

これは作品内の「世界」が拒絶していると考えるパターンです。


もう一つは超メタ的な視点で、けど西尾維新だとどちらかというとこっちじゃないかと思っています。

なにせ以前、「物語の主人公を殺して物語を終わらせることはできるか?」とか作品内でやり始めた過去を持っていますから……

作品における世界の意思と言うのは、詰まるところ作者の意思、又は読者の意思です。どちらかからの圧力が強まると文字通り「世界から拒絶されてしまう」ことになります。まあ成仏するはずの真宵がいつまで現世にとどまっているの?というのは誰しも思っていたことでしょうしね。

つまり読者又は作者のフラストレーションに耐え切れなくなって真宵は消えてしまった、作品外部の世界から拒絶されたと考えるパターンです。


作品内でキーパーソンがいたようですが、それがどちらかを体現しているという形ではないかと思います。どちらかというと後者かな?メメは前者より?

そんな想像が掻き立てられる程度には、やはり好きなんですよね、この話。