デルフィニア戦記 ひたすら格好良さを求めて

放浪の戦士〈1〉―デルフィニア戦記 第1部 (中公文庫)

放浪の戦士〈1〉―デルフィニア戦記 第1部 (中公文庫)

※3節目以降ネタバレ

・無双ものとかTSものとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ

頭脳明晰ながらどこかとぼけたところもあり、権力を持ちながらそれに驕ることなく謙虚で、剣を取らせれば国一番、将軍としても卓抜しており、政治の駆け引きも難なくこなす。義に厚く、誠実で、己をひけらかすでもなく、しかし愛嬌のある人物。大して関係ないがイケメンでもある。

なかなか表現しきるのは難しいが、本作の主人公はだいたいこんな人物だ。ついでにヒロインもこのぐらいの能力を持っている。

ただの無双もの、「俺TUEEEEEEEE!!!!!!!!!」だと思うだろうか?確かにそういう一面も持っている。ついでにヒロイン(?)が、「前の世界だと男だったのに、なぜか女に?」というある意味キャッチーな導入のせいで、なおさら本作は誤解されがちである。

しかしこんな言い方をすると顰蹙を買いそうだが、単に主人公がとんでもなく強いのとは一枚も二枚も違う。

確かに、この作品の主人公たちは現実の人間ではありえないだろう。あまりにも人間として強すぎる。それほどの「理想像」であるが、その周囲の人物との徹底的な相対化や、世界や出来事の詳細な描写により、リアリティを失った妄想ではなく、そこから突き抜けて確固とした強度を持つ人物に仕上がっているのだ。

茅田氏のストーリーとしても相当面白いのだが、なんと言ってもこの点は図抜けているように思う。そしてこの「格好良さ(当然だが、見た目のことではない)の追求」とでもいうべきものは、私の知る限り氏の作品全てに共通する思想であり、最大の「面白さ」と言える部分だ。


・そもそも格好良いとは

そもそも、人が格好良さを感じるのはどんなときだろうか?

諸説あると思うが、私は「対象に自らの理想を見出したとき」格好良く感じるのだと考えている。

例えば、氾濫して荒れる川でおぼれている子供を、命を張って助けに行く人がいたとする。これは格好いいだろうか。

まあ比較的コンセンサスを得られそうなものを選んだつもりだが、これはただの行動であり、これだけで格好いいと断言できるわけではない。

これをその人が尊い行動だと思っており、かつ容易にはできないようなことで、「できる方が理想的だけど(なかなかできない)」と思っている場合にのみ、その行動は格好いいと認識されるのだ。簡単に言ってしまえば「さすがディオ!おれたちにできない事を平然とやってのけるッそこにシビれる!あこがれるゥ!」ということだ。いやあれは少しも格好良くないが。

そう考えれば、「格好良さ」を追求することがどれほど途方もない試みか、分かっていただけるだろうか。理屈ではなく物語で「価値観の創造」に挑んでいるようなものだ。

上記のプロセスというのは通常自覚的ではないように思う。最初に「格好いい」と感じて、なぜ格好いいのか、どこが格好いいのか考えて初めて分かる類のものだ。つまりこの格好良さの自覚というのは、つまり自らの価値観を再確認することであり、場合によっては己を定義しなおすことで、新たに創造することでもある。


・あらゆる角度から格好良さを追求する

では、この格好良さを示すためには何があればよいか。

先の例を見ても分かるとおり、人は行動して初めて格好良さを示すことができる。ストーリーはある意味そのためにあると言っても過言ではない。

様々な出来事に対し、どういう反応をするのか、どういった考え方で対するのか。そういう描写の積み重ねで格好いい人物を作り上げていく。

ここがまた奮っているのだが、このプロセスはある意味登場する全ての人物においてなされている。脇役の反応などの些細な部分にも「格好良さ」は潜んでいる。なにせ登場する味方はだいたいみんな格好いいのだ。

例えば、ガレンスなどがいい例だ。リィを散々侮っておいて、負けたとあらば精一杯負け惜しみを言うかと思いきや、あっさり自分の非を認めるのである。

こういう一般人の感性を取り入れることで、理想像となっている彼らがいかに「異常」かを作品内でも認めることによって相対化しつつ、「一般人における格好良さ」をも描き出して見せる。私たちは彼ら一般人の目から主人公たちの「異常さ」を改めて確かめることで、決して世界がリアリティを失っていないことを確かめる。


・倫理観すらも超えて

そして、この格好良さの描写は倫理観をも超えて理想像へと迫っていく。

例えば、「復讐は何も生まない」という言葉は比較的よく聞かれると思う。我々の倫理観としても、通常復讐というのは容易には許されることではない。

しかし本作ではこの壁を簡単に越えていく。「親を殺した相手への復讐をあきらめろなんて世迷いごとは、殺されてない連中がほざいていればいい」と言って、ヒロインは主人公の敵討ちを支持するのだ。

これはどちらかというと倫理的に許されることではないだろうが、果たしてここで復讐をあきらめろ、と諭すのは格好いいだろうか?

もうひとつ例を出すとすれば、序盤でタウの山賊たちにならずものを引き渡す際、「こいつらをきちんと裁かなくていいんですかい?」という言葉に対し、「手間が省けていい」という。

私刑というのは形としては褒められたものではないが、杓子定規にルールを守るよりある意味「格好いい」行為である。

これらも度が過ぎればただ愚かなだけだが、その按配をうまく見極めることで「格好良さ」へと昇華しているように思う。


・描き出される「格好良さ」とは

これは物語によって描かれるものであり、言葉にして抽出することが極めて困難であるがゆえに物語として秀逸であるということになるのだろうが、あえて言えば「この剣と、戦士としての魂にかけて」ということになるのではないかと思う。

「剣と、戦士としての魂」という表現自体、本作を読んでいなければうまくつかめない概念かもしれない。

結局は、本作を通して感じてみて欲しい、ということになる。こればっかりは書けないからこそなのだ。

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明らかに褒めすぎなのは自分でも分かっていますが……まあ、信者なので。<評価>
日常系★★★★
親愛★★★★★
無双系★★★★★
テーマ性★★★★★