終わる世界のアルバム 滅びゆく世界で、私たちは何をするのか?

終わる世界のアルバム (メディアワークス文庫)

終わる世界のアルバム (メディアワークス文庫)

※3節目以降ネタバレ

・やさしい終末世界

本書は滅びゆく世界で、どうすることもできず、ただ穏やかに日常を過ごす終末世界で生きる高校生たちの話だ。

世界も人類も救われようもなく、ただ滅びていく。

この手の話を今の人も昔の人も大好きなのは、はっきりと社会的な価値観が消失するからだろう。

私たちは近代以降、自己と世界が本質的に無価値であるという命題からいつまで経っても抜け出せずにいる。だから、「価値観の崩壊した世界の中で、それでも人はどう生きるのか?」ということに惹かれずにはいられないのだろう。それはそのまま、自分の生きる糧にも、道標にもなるからだ。

この類型はおそらく探せばキリがないが、ライトノベルで言えば、『旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで』、ラノベ以外かつ個人について焦点を当てていいなら『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『knockin' on heaven's door』辺りが面白い。

特に本書の著者である杉井光氏は「人生で一番たくさん見た映画は『knockin' on heaven's door』」と言っているくらいなので、このテーマには元から強い関心があったのだろう。同映画の主題歌が序文に使われていることからも分かるとおり、本書にも同映画への強いリスペクトを感じる。本書を気に入った方はぜひこちらもチェックすることを勧めたい。

前置きはこれくらいにして、本書は、ではそれらと比べてどのような作品だったのか見ていきたい。


・徹底して無価値にする話

本書において他と比べて特筆しているのは、社会に対して、あるいは自分の周囲に対して、徹底的に生きる意味を無くしていることだ。

なにせある日消えると、その人の存在した記録や記憶ごと全て抹消されて、いなかったかのように書き換えられてしまう。

そうすると、もはや「自分という存在が消えても何かが残るように」といった、生きた証を立てる、というような逃げ道はない。

では、こんな世界で人はどうやって生きたらいいのだろう。

本書で描かれているのは、これも徹底してただの日常生活だ。毎日学校に行き、勉強し、進学する。あるいは音楽を聴く。子供の世話をする、ご飯を作ってやる。写真屋を営業して、金のない高校生に銀塩フィルムを売ってやる。本当に取り留めもない日常である。

本書で起こっていることは非現実的だろうか。単純にこの設定だけ見るなら、(適当に考えていいなら)殺人が殺人足りえないこの世界では、もしかしたら殺人が横行するかもしれないし、または人と関わりあう意味が見いだせず、没交渉的になってみんな独善的になるかもしれない。

そういう可能性があってなお、この世界では何のかわりばえのない日常が続いていく。

私はこれは、とてもロジカルだし、感情的にも納得のいく結論だと思う。人は連続性が確保できないと、必然的に「今」を志向して日常に帰っていくと思うからだ。これは、自己拡大欲求は比較的時間的連続性がないと満たされにくい、かつ相当量の苦痛を伴うのに対し、自己放棄欲求はどちらもないからだろう。まさしく『けいおん!』の世界である。


・それでも人は海を目指す

しかし、それでも人は海を目指す。

海はなくなったと言われた。見た人は例外なく消えてしまうとも。それでも奈月は海を目指す。主人公も一緒に行った。

DJサトシはターンテーブルが壊れても音楽を流し続けた。この3者は同じ動機を持っていると思う。DJサトシの台詞によく表れているので、それを引いてきたい。いちいち説明するのも無粋な気がするが、このセリフは何も音楽だけを指している言葉ではないように思える。

なにがどれだけ消えちまっても、忘れちまっても、歌うやつがいて、聴くやつがいて、それをラジオがつないでいてくれれば、音楽は死なないんだ。そうだろ?

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まあこの手の話はたくさん触れてきたと思うんですが、やっぱり好きなものは好きでした。読後感が素晴らしいと思います。