エスケヱプ・スピヰド2 社会的に存在価値のないことが不安ですか

※2節目以降ネタバレ

・堅実なエンターテイメントであることは変わらず

シリーズとしてはそこまで変化しているわけではないので、概要については1巻の感想を参照されたい。

前巻は大賞用ということもあり、きれいに一巻で完結した。しかし今巻からは新たに大きな物語が始動するため、全体の評価はそれが終わるまで待たねばならない。

それでも、この巻の中にきちんと山場を持ってきてエンターテイメントに仕上げる辺りはさすがというべきなのかもしれない。もっとも、先の見えない続編という意味ではファンタジア文庫の悪しき(?)風習のように見えなくもないが。

そのためひとまず今回は、今巻のテーマであった鴇子のストーリーに焦点を当てて考えることにする。


・社会的な価値の消失

人間は、個人で見れば連続性がないことはさほど問題ではない。寝るたびに厳密には連続性が絶えるのだから、記憶が一貫していればさほど気にすることもない。

ゆえに今巻の話で鴇子に衝撃を与えたのは、自分が作りものだという点ではなく(こちらも当然問題があり、違う小説ではテーマになっていることもあるが、この話ではさほど問題になっていない)、複製になっているせいでその社会的な価値=鴇子にとっての存在価値が失われてしまったことだ。ようするに、自分には価値がない、と思ってしまったことが問題なのだ。

彼女の支えになっていたのはひとえに第三皇女であるということだ。当然帝王学を学んでいれば、もしくはそのように接されていればそう考えるようになるだろう。全く価値がないとは言わないが、別物になってしまい、連続性が絶たれたことは確かだ。

この問いは、本質的には一巻で問われていた「役割が終わったら、どうするのか」ということと等しい。外側から与えられる価値が消失したら、なにを支えにすればいいのか、ということだ。

鴇子は言う。「じゃあ、なんでだ!わたしは偽物なんだぞ!偉くもなんともない、皇女と同じ顔をしてるだけの人形なんだ!なんでまだわたしに構うんだよ!」と。

しかし、これに対する叶葉の答えはシンプルだ。「友達ですから」。

要するにそれだけのことである。人には社会的な存在価値など全く不要というわけにはいかないが、実際のところきわめてミクロな範囲で価値が認識できれば、それで生きていけるのだ。価値の大小など人によって変わるので(鴇子にとっては大問題だったが、叶葉にとっては些事だった)、さほどの問題ではない。

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1巻に比べると少しテーマ性が弱いかなという印象を受けました。ただ一巻は当然この話をするためにすべての設計がされているので、当然かもしれません。ファンディスクと思えば、むしろ壮大さに心躍ります。