萌えの原理

・萌えのあいまいさ

○○萌え。

もはやオタクはおろか一般(この区別はあまり好きではないし、無意味になりつつありますが、一応)の方々にも浸透しており、大抵の人には通じることでしょう。AKBとかでも有名になったし。

ただ実際のところ、萌えとはなんなのか。どういう状態を指すのか。イマイチはっきりしていないように思います。

単純に好きとも愛とも違いますし、かといってエロいのとも違います。キャラや人を指すことをありますし、服やパーツなどの部分を指すこともあります。もはや属性、例えば不憫とか、どじっ子なんかにまで地平は広がっています。

昨今の、特にライトノベルにおいては欠かせない要素なだけに、この実態をつかむことはライトノベルをよりクリアに見ることにつながると考えました。

例によって一度では解決しないでしょうが、とりあえず端緒をつかめれば良し、としたいと思います。


・2次元に使われがちな所から考える

今回は萌えがなぜ二次元においてよく使われるかについてから考えてみたいと思います。

私はキャラクターに対する好悪の感情は、全てそのキャラクターに対してどんな幻想を抱いているか、つまり普通の人間に対する感情と本質的には変わらないものであると考えています。

しかし、好きなキャラというのはいますが、愛しているキャラと表現することは比較的少ない。

いや「愛している」は普通にありますが、それが恋愛対象であることがめったにない、というべきでしょうか。

これは好き嫌いは単純に価値観と一致するかであることに対し、愛というのはそれ自体が理想の幻想を体現したものに向けられることに加え、恋愛ともなれば「相手が自分のことをどう思っているか」という双方向の幻想にも支えられなければならず、それをフィクションから見出すのは容易なことではないからだと思います。

ゆえにフィクションには発生しづらい。まあ筋金入りの人は2次元の人物と本気で結婚したがるようなこともあるようですが、それは例外です。

そこで代わりに存在するのが萌えではないかと思います。萌えというのは、愛とは違い一方的です。しかし好きであると言うことともまた異なります。

そこに働いているのはどちらかというと恋愛感情に近く、つまり相手に「自分が考える理想と一致する」という幻想を見出したとき、人はそのキャラに対し「萌え」ると考えました。

またもう一つの特徴として、萌えとは相手が偶像であることにある程度自覚的な時に起こるのではないかと考えています。

そこには一種のあきらめというか、安心があります。偶像には否定されることも拒絶されることもないですから。ゆえに安心して「萌え」られます。

そこに萌えられる相手の心情を思いやる気持ちは存在しないし、それが相手にどういう受け取り方をされるかという考慮も存在しない。まあ架空の相手ですから当たり前ですが。

だからフィクション相手なのは当然として、生身の人間であってはならない。例え現実に存在する人間であっても、例えばアイドルのように人間的な部分はほとんど消し去られ、偶像化したような存在でなければならない。

猫耳などの「パーツ」に萌えるのは、「そのパーツをつける人間、つけている人間とは果たしてどんな人間か?」というキャラクターの記号から導かれうる文脈に、あるべき理想を見出すからではないでしょうか。

                                    • -

こんな感じでしょうか……。総括すると、「萌え」とは

・恋愛感情に似ている
・しかし、相手が架空の存在である事に自覚的である点が異なる
・それゆえに対象への配慮・否定される恐怖が存在しない

というものである、と考えました。

つけ加えるなら、ゆえに心地よいものである、という点は言ってよいと思います。

後はまた作品に触れながら考えていきます……