マルチエンドの良し悪し
・どう解釈するか
物語にリセットは許されるのか?
もしこうであったら、を物語自身が体現していいのか?
特にエロゲなどのノベルゲーをやっていると、この事をたびたび考えます。
そりゃ、RPGなど普通のゲームにおいてリセットが存在しない=ゲームオーバーの時点で二度とプレイすることができない、最初からやり直しもできないなんてルールにしたら、誰もプレイしない事はわかります。私もやりません。
ただ、ノベルゲーム、エロゲでもいいですが、この類においてシナリオの分岐、及びやり直しは本当に必要なのでしょうか。また必要であればどのような理由によるのでしょうか。
私は物語には唯一性による強度があると言っていますから、その唯一性と矛盾するマルチエンドについては考えないわけにはいきませんので、試しにちょっと考えてみました。
・マルチエンドの功=読者の主体性
まずマルチエンドの長所について考えたいと思います。
一般的には、マルチエンドは選んだ選択肢の違いによって発生します。この選択肢を通して自らストーリーに関わることにより、主体性が発生します。
そのため一本道のレールから外れ、物語を「体験させられている」状態から「体験する」状態になります。加えて、より主人公に近い心情で進むことができます。
これは恋愛シュミレーションゲームとしては多分極めて有効で、主人公になりきってヒロインと付き合うのは「主人公」ではなく「自分」であってほしいというのは自然な欲求に思えます。
ひとつのゲームにつきヒロインが一人では効率が悪いですから、一度にたくさんのヒロインが用意されます。自分の好きなヒロインを積極的に攻略でき、その子専用のエンディングがある=マルチエンドは、この文脈では必然とも言えそうです。
ここから先は詳しく調べたわけではないので推測ですが(どっかで聞いたのかもしれませんが)、昔はキャラを用意してその子を攻略できるようにしておけば良かったのが、キャラ付けとして単純な性格だけでは不足してきた(パターンが出尽くした)事に加え、その子が主人公=自分を好きになってくれることに対する不信感(好きになってくれることに明確な理由が欲しい!)により、キャラクターが固有のストーリーを持つようになっていったのではないかと思います。
そこから、ストーリーとキャラクターの主従が逆転して、いわゆる泣きゲー、燃えゲーのように発展していった、とそういう推測です。しかしそこで問題が発生しました。
・マルチエンドの罪=物語の強度が下がる
その問題は、この燃えゲー、泣きゲーまで来るとストーリーに明確なテーマ性があることが多いので、主人公が比較的独立したキャラクターとなっており、特に読者と同一化する必要のないケースが多いように思えることです。
『Fate/Staynight』のように、マルチエンドを通り越して明確なゲーム性を持たせるところまで行けば当てはまらないかもしれません。まああのゲームは周回を通してテーマの深化も行っており、あらゆる意味でこの辺の話には当てはまらないので、今回は気にしないことにします。
しかしそうでない場合は、選択肢による分岐を取り入れることでむしろストーリーの強度が弱まってしまう、デメリットの方が強いように見えます。決して同時には成立し得ないものを並べますから、結局どれなの?と。
いっそ作中にループを取り込んでくれればいいんですけどね。重大なネタバレを含むため、詳しくは名前を挙げられませんがあれとか、あれとか。
いや一作品に1ルートしか入れられないとボリュームとして売り出すのが難しいとか、その辺がジレンマになっているとは思うのですが。せめて一人のキャラで、一回ノーマルエンド見ないとグッドエンド入れないとかはやめた方がいいと思うんですよね……
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話がとっちらかりましたが、だからなんなの?と言われれば、本当は内容に合わせてその辺はちゃんと選ばれるべきだよね、とかそういう話です多分。まあ最近傑作と呼ばれる話は比較的その辺をちゃんと処理している作品が多いような気はしますので、大して意味のない議論だと思います。
どちらかというと、単純に私がなぜマルチエンドが嫌いかをちゃんと言語化しておきたかっただけです。SAO読んでると、Web版との違いを考えてしまって、どうにもしっくりこない時がちょいちょいあるので、その辺も動機にはなってます。
別にクリエイターの方々に訴えることができるとは思っていませんので、まあ誰かしらの疑問に対して何かしらヒントにでもなればいいですね。